-絶え間なく鍛えた者だけに栄誉が訪れる-

2007-10-26

走ることについて語るときにたしろの語るたわごと

北海道のランナーでは著名なランナーであるOgamanさんのブログから「楽しさばかりを伝えるというのは、片手落ちじゃないか」と疑問を呈する内容の記事を読んだ。「やはり今年も名勝負?~北海道ロードレース完走記その2」という記事の後段だ。

僕も多くの点で賛意を示したいのだが、なんか違うなぁ...と僕の本能がアラートを出す。「楽しさばかりを伝えるというのは片手落ちではないだろうか」と疑問を持つのはランニングの楽しさを知ったレベルの人の言うことだよなぁ...と。(僕はまだランニングが手放しで「楽しい」とは思っていない。)

マラソンが危険なスポーツであることはブログを開設した当時よりページのヘッダーに書いてある。
ランニング中に死亡する原因については「心房細動」とか「落雷」、「スズメバチに刺される」とか「犬に襲われる」を始め「交通事故」だってある。
死に至らずとも「死ぬかと思う」ことは結構ある。自分の能力の限界付近まで頑張っちゃったとき。夜道をランニングしていて物音に驚いたときなんかは心臓の弱いひとならショック死するぞと(心臓の弱いランナーはいないと思うけど)。

僕はそもそも「走る行為」を「苦しい行為だ」と思っている(普通の人はそう思うらしいので、僕はある意味そういったふつうの感性の持ち主じゃないだろうか)。
このブログの記事にも書いたことがあるけど僕はランニングが「健康に良い」という説には疑問も持っている。
健康診断の時に医者に言われたことだが、運動が健康に良いとするならば「スポーツ選手がすべからく長寿でなければならないけどそういう統計はない。」と。さらに「そもそも平常時の心拍数の2~5倍の運動を心臓にさせることが健康に良いとはいえない。」とも言われた。
僕には医学的な知見はないけれど、医者の言うことも「もっともだ」と思った。そして、やっぱりランニングは「苦しいこと」なのだと確信している。

確かにいろいろと「楽しい」と感じることは山ほどある。その楽しいと感じたことをこのブログにも書いてきた。でも、楽しさってランニングの段階(キャリアとか年齢とかレベルとか)ごとに異なっているように思う。

僕は肥満解消のためにランニングを始めた。最初のころは「楽しい」なんて感じる余裕なんてなかった。もしかしたら「減量の実感」と「ランニングの苦しさ」を天秤にかけて「ランニングは苦しいからもうやめた!」と投げ出していたかもしれない。(だってそうでしょ、投げ出しても誰にも迷惑をかけないんだからストレスなくやめられますもの。)
それでも続けてこられたのは体重計に乗った時にその数字が少しずつではあるが減って行くのが嬉しくて、それがランニングの苦痛に勝っていたからにすぎなかったためだと思う。
今では「もう少し速くなりたい」と思って続けている。

なぜ続けようとしているのか。
日々(あるいはレースごとに)前の自分と今の自分を比べて好ましい方向へ変化している実感とかある種の達成感があるからだ。言い換えれば「知らない自分」を知ることができたからだと思うし、明日はもっと好ましい方向へ変化しているかもしれないという希望を持てるからだと思う。
なにかを得ようとすれば、それに見合うだけの犠牲が伴う。それでも、続けられるのはところどころに「達成感」があって、今後に「希望」(夢と言ってもいいかも)が持てて、いろんなことを「知る楽しさ」があるからだと思う。そうそう、知る楽しさといえば、いろいろな機会(レースやネットなど)に見ず知らずのランナーと知り合えるのも楽しみの一つだよね。彼等(彼女等)の存在はなにものにも替えがたいものだ。新た出会いは僕に新たな「希望」を与え、こうした仲間からは「達成感」を得るための叱咤激励があり、僕の知らないことを教えてくれたりもする。

これからランニングを始めようとする人たちの動機はいろいろあるだろう。

  • ダイエットのため。
  • 走っている人をみて、楽しそうだったから。
  • ○○マラソンに出てみたい。
  • 公道を堂々と走る特別な気分を味わってみたい。
  • 沿道の応援を浴びてみたい。
なんでも良いとおもう。
確かにランニングは楽しい。でも、走ることは本質的に苦しいことだ。苦しいことには危険も伴う(冒頭に書いた通り)。
楽しさはその苦しさの向こう側にあるので、苦しさを乗り越え、危険を回避しながら楽しさに到達するにはそれなりの訓練と工夫や注意が必要だと思う。

僕のようなキャリアの浅いランナーが言うのもおこがましいが、ビギナーに助言できることがあるとすれば、
  • 楽しさ探しの助言(目標設定の助言や努力に対する評価への叱咤激励)
  • 苦しさを乗り越えるためのそれなりの訓練や工夫に対する応援
  • 危険を回避するための工夫や注意の喚起
ぐらいなものじゃないだろうか。

僕はヘッダーの最後に「絶え間なく鍛えた者だけに栄誉が訪れる」と書いている。
少しずつでも努力を継続して、なにがしかの達成感(それが他人にとってはささやかなものであってもそれが嬉しいと思うし楽しいと思う)を得たいと願うからだ。
今の世の中(いや、太古の昔からそうだったかもしれないが)努力に相応する達成感を実感できる環境というのはそう多くないように思う。
ランニングは裸一貫(文字通り裸一貫というわけにはいかないのだが)で、その達成感を、達成する喜びや達成にいたるまでの努力の尊さを、かけがえのない貴重な(ある意味、生死のリスクを共にする)仲間が得られる環境だと思う。

僕はそんな環境が気に入っているので今後もランニングを続けるだろう。そして、続けるためには生き続けなければならない。生き続けるために予測されるリスクを最小限に留める注意を払い、時にはリスクを回避する勇気を持ちたい。(という理想を持っている)

そう、僕がランナーであり続けるためにだ。

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